一期は夢よ、ただ狂へ

芸術系に通う限界女子大生の日記。うつ病を引きずりながら復学。

すべて私のせい

まるで人格否定のような言葉の数々に私は耐えられなかった。

 

体力は回復してきたものの、100%の力で動いていたあの頃のようなパフォーマンスを今すぐに復活させることは不可能だと判断した私は、教授に事情を話すべく研究室へと足を運んだ。

 

「学生の本分である学業を優先させたいので稽古を休ませていただきたい」

 

言い訳のような理由をつらつらと並べながら、突然休学してしまったことに対する謝罪の意も含めて、私は教授に許しを乞うた。

 

残念ながらその言葉は「俺の弟子としてのお前の言い分を(本来学生と教授という立場で接さなければならない)学校に持ち込むな」というひと言葉で蹴られてしまったわけだが…

その後も「20年も生きていてこんなにメンタルが弱いのはお前のせい」「お前の過ごす24時間よりも俺の過ごす24時間のほうが忙しい、よってお前の言う“忙しい”は理由にならない」「今お前の身に起こっていることは逃げるのではなく乗り越えるべき壁だ」…などと今の私には到底受け止めきれない言葉を投げつけられ、私はただひたすら迫り上がる嗚咽と涙に顔を歪ませながら「申し訳ありませんでした」と頭を下げる他なかった。恐らく隣の研究室にも聞こえているレベルで取り乱してしまったのだろう。後日挨拶に伺ったら「無理のない範囲でね」と優しく声をかけてくださった。

 

そんな調子で研究室を出てからも涙は止まらず、5分後に始まるガイダンスは嗚咽が収まらないなかでの出席となった。幸い端の席を確保できたのでそこまで人の目は気にならなかったが、お手洗いの鏡で見た自分の顔はあまりにも酷い有様で、持参したマスクで顔を覆っても眼球と目尻の真っ赤なラインが泣いていたことをこれでもかと主張していた。

 

そんな感じで、学校での用事が済んでからも自分の気持ちに上手く折り合いをつけられそうになく、自宅とは真逆の電車に乗って上野へ行くことにした。

 

上野公園に続く長い桜並木。

昼間から桜の下で缶ビールを煽る大人、そこかしこで繰り広げられる大道芸に目が釘付けの子ども達、セルフィーで桜と自分を写すのに必死な外国人観光客、手を繋いで満開の桜を眺めるカップル。

 

誰も私を見る余裕なんてない。誰もが桜やそれにまつわる催し物に目を惹かれ、楽しんでいる。

たくさんの人がいるのに意識が散漫としているこの感じが、感情に収拾のつかない私にとってはうってつけの環境だった。

 

ベンチに座って桜を眺めつつ、教授に言われたことを手持ちのノートに全て書き出してみる。思い出すだけでも辛かったが現実なので受け入れるしかない。あらかた書き終わったところで今まで抱えていた悲しみの一部は怒りに変わり、二日かけてやっと「言われたことを全て鵜呑みにするから辛い」のだと気付くことができた。

 

姉弟子である高校の先生にこのことで相談を持ちかけたところ、話した直後は「やっぱり稽古場に戻るべきなんだ」と清々しい気持ちでいたが、よくよく考えれば先生の言葉は稽古場に戻るように上手く会話を誘導しているようにしか感じることができず、あの助言はひとりの人間としてのものではなく教師、指導者という立場からの言葉なのだと思った。あまり人が信用できなくなった。

 

うつ病を患った私としては原因となるものは最小限に留めるべきであると考えるし、書道を愛する私としては稽古場で鍛錬することはこの上なく最高の機会であると考えている。その双方の考えを重ねようとすると感情の齟齬が起きる。このことは自分が一番分かっている。

 

どうしたものか。

 

やはり大学を辞めるべきだったんだろうか。意気地なしだから、そんなことはできなかった。ゆらゆらと揺れる一貫性のない感情を浮かべるには大学はもってこいの場所だからだ。

 

休学中のブログの更新は今日で最後になる。復学してから生きてるかどうか分からないけど、きっと意気地なしだから揺蕩っているんだろう。そしてまたここに弱音をこぼしに来るんだろう。知ってる。

 

みんなお疲れ様。美味しいものをいっぱい食べて布団でぐっすり眠ろうね。そして、時々面白い話をしよう。

 

では。

心の経年劣化

 

「肩甲骨が浮いてきたね」

 

風呂でそう指摘されたのはつい最近の出来事だ。

 

姿勢を正さなければならない環境から離れて結構経ったんだ、なんて思ったりした。

 

 半ひきこもり生活はもう10ヶ月目に突入した。そんな私の唯一羽を伸ばせる時間は八の字との逢瀬だ。申し訳ないことに私はお金を稼ぐ努力すらしなくなったので、自宅から車で30分ほどの場所まで向こうに来てもらって時々遊んでいる。

 

過保護な親には決まって「友達の家に遊びに行くから」といって家を出る。複数の友達と遊ぶから、と買った手土産になるはずのメリーの40粒入りチョコレートを渡してしまったのは今でもちょっと後悔している。もっと上手い言い訳をして良いチョコレートを渡すべきだった。

 

私の体調は特別いいわけでも、悪いわけでもない。なんてったって精神疾患を背負った私の心には常に《自殺する》という選択肢があって、徐々に戻りつつある体力がそれに少しずつ可能性を纏わせているからだ。

 

調子が良くなるごとに死のうと思えばいくらでもできる環境が整ってゆく。我ながら皮肉な話だと思う。

 

そういう思考に陥ってプラスの方向に傾けるなら百歩譲ってもそのほうが現状よりマシ。だけど、残念なことに自己肯定感を踏みにじられるような出来事が何件かあったので今の私の心はそう簡単にプラスの方向に傾いてくれなかった。

 

ひとつめは『留年』。

 

先日復学届を提出するために久々に行った大学で、私は留年という言葉を突きつけられた。私の通うFラン大は基本的に留年者を出さないことで有名だ。その証明に、単位の危うい先輩方は教授パワーでなんとか留年を免れてきた(これはガチ)。

 

けれど私はあることを失念していた。2年のうちに1単位でも取らなければ留年するということに。

 

ひと学部30人にも満たない私の大学で留年することは即ち『社会的死』を意味する。同じ専攻なら学年関係なく全員が全員名前と顔が一致するくらい、狭い世界に押し込められていると説明したら大体察しはつくだろう。下手したら高校時よりも狭い社会で生きている。

 

海外研修や卒業制作展の手伝いなど、学部内で協力することの多い閉塞的な学校であるがゆえの悩みがあとを経たない。

 

Fランで留年、という最悪の烙印も同時に押されてしまった。プライドを捨てればいいのだろうか。当分は立ち直れそうにない。

 

そしてふたつめは『虫歯』だ。

 

私の身体はどこも酷い有様で、肌は常にアトピーのように痒みがあり所々ただれている。小学生の頃から頭頂部だけ髪がない。五感のうちひとつは難ありで、何をしなくても常に満身創痍に近い状態であった。

 

そんな私にもひとつ自慢できることがあった。歯だけは並びも形も良く、虫歯をしたことがない。ネットで小さい頃に歯列矯正をさせてくれた両親を持った子が羨ましい、歯並びが悪いせいで笑顔がぎこちない、といった投稿を見るたび私は唯一歯だけは自信が持てるようになった。

 

けれど、日々だらだらと過食をするせいでついに親知らずと歯茎の間に膿ができ、歯の至るところに痛みが生じるようになった。

 

一日数回歯磨きをするよう心がけていたがケアの方法を間違えてしまったらしい。膿からは信じられないほどの異臭がする。美味しいご飯もこれでは食べる気にならない。

 

 

最後に、これらは全て自分が引き起こしたことであって誰も悪くない。大学に入って真面目に勉強して成績もしっかりとれていたのに休学からの留年、自信の喪失。何がいけなかったんだろうと思い返すたびに自分は馬鹿でどうしようもなく前に進もうともしないゴミクズであることを痛感した。自分が思ってる以上に落ち込んでいるので、創作物を手にとっても面白さがイマイチ響いてこない。

 

生きるのがめんどくさい。真面目の次は努力という言葉が嫌いになった。できることなら早く死んで綺麗な海に骨を撒いてほしい。蒔いた骨からガスが出て海を汚してしまったなら、それは弔いきれなかった私の醜い感情だ。

 

死にたい。

快適な生き地獄について

抗うつ薬の服用は君に任せるよ」

 

医師にそう言われたのがつい先日のこと。試しに服用の頻度を減らしてみたところ、一日中ボーっとしていた頭が長年の眠りから目覚めたかのようにクリアになっていく。原因から完全に目を逸らして生活しているので回復するのは当たり前だが物理的にその感触を得られたことがとても嬉しかった。

 

そんな感じで比較的健康体でいられる時間が確保できているので、映画や舞台に足を運ぶこともしばしば。休学前は時間がないから…と距離を置いてきた創作物たち。本当は大好きだけどいろんな言い訳をつけて行かなかった劇場。久々の、幕が上がる前の高揚感に心をときめかせた。とにかく多くの人が舞台上を駆け回る。誰もが愛とは、人生とは、そんな壮大なテーマと真剣に向き合っていてかっこいいと思った。そんな馬鹿な、と笑いものにされそうな台詞を得意げに観客席に放つ演者の格好良さは実際に劇場へ行かないと経験できない、改めてそう感じた。浮ついた気持ちのまま、舞台で流れていた曲を口ずさみながら山手線に乗る。私はこれ以上幸せなことはないと思う。

 

秋頃からアニメも沢山見だした。時々自分に言われてるんじゃないか、と思わせるような台詞があってドキッとするけど、アニメを通して客観的に自己解析できるのはとても良いと思った。今一番好きなのは『風が強く吹いている』。OPの箱根駅伝の景色を見るだけで胸が熱くなる。指導者兼選手というハイジさんの「もっと走らせれば良かったんだろうか」という自問に対してカケルくんが「俺は自分の意思で走りますから」と、その状況で一番安心する言葉をハイジさんに投げかけるシーンに寛政大チームの過去たるチームワークと今まで積み重ねてきたものの誇りを感じた。高校であらゆるものに縛られながら走ってきたカケルと私自身をつい重ねてしまったり、なかなか感情移入しやすいアニメだ。早いうちに原作も読みたい。

 

私はあと一ヶ月もしないうちに成人を迎える。歳をとったからといって急に大人になるわけでもないし、休学して辛い思いをしたにも関わらずまた原因となる場所に戻る自分の頑固さには相変わらず呆れてしまう。気分転換に覗いたSNSで私の作品を盗用した挙句「これは自作だ」とほざく人間がいたのだ。これに短気な私はカッと怒りを顕にしてしまった。あんな奴に負けてたまるか、と。こんな調子だから成人しても心はガキのまんまなんだろうなぁ。でもそういう競争心が消えてしまったら私の生きる意味なんてどこにもないんだとも思う。メンタルがおかしくなろうが何だろうが、結局私は負のエネルギーでしか働けない人間だということだ。

 

折角調子がいいので今月の目標は

・色々な人に字を書く動機やその方法について調べる

・少しでも体力をつける

・収入源を得る

の3つにした。必ず全て達成しなければ、というわけではない。自分の体調と向き合いながら気長にやっていこうと思う。

 

そういえば、私は自分が聴覚過敏であることをつい最近知った。自身を知れたことの喜びは大きい。今はデジタル耳栓というものが売っているらしく、これを使うことで日常の音に関するストレスを軽減できるそうだ。雑音に紛れて主音声が聞き取れない私にとって聴覚過敏であること、そして聴覚過敏の対処法があることはとても大きかった。考えることを放棄してただただ死にたいと嘆くより、少しずつ自分を知って対策し、快適な生き地獄を目指すのが人生の目標だ。

 

 

経過報告

うつになっておおよそ半年。経過報告です。

 

原因の多くを占めている大学との接触が無くなったことで少しだけ焦燥感や憂鬱な気分は解消されたように感じます。(私がうつになった原因は、医者に伝えていること以外にも実はたくさんあるけど挙げたらキリがないので主要なことしか伝えてません)

 

ただ、そういう悩みが私の器から薄れていくと同時に、悩みの器を埋め尽くそうと今まで意識の外にあった睡眠障害がガンガン押し寄せて来ました。薬の副作用も相まって眠れず、眠れたとしても睡眠が浅いので毎日内臓のおかしな感覚と頭痛で目が覚めます。時間だけはたっぷりあるので何かひとつのことに集中しようと一応取り組んではみますが、集中力という言葉が私の頭の中から抹消されたような気がします。

 

それから物事の記憶が非常に弱くなりました。これは脳みそを使っていないのが主な原因だと私は思っていますが、先週出かけたこととか、昨夜食べたものだとか、あっという間に忘れてしまいます。常に頭はすっからかんです。

 

感情の起伏が激しいと疲れるので、安定剤を飲みます。笑うと疲れるのであまり表情を変えたくありません。この間死ぬほど面白い動画を見つけてゲラゲラ笑った日があったんですけど、その日の晩、飲み物を飲もうとしたら頬が攣って危うく口の両端から飲み物がこぼれ落ちそうになりました。

 

安定剤を飲んでもダメな日は、ひたすら布団に篭もります。周囲に危害を加えないように、ただじっと涙を流し続けます。いつだか分かりませんけど自室の壁に鉛筆で「私はどこ」と弱い力で書かれていました。どう見ても自筆です。耐えられなくて書いたんでしょう。

 

 

ざっとこんな風に、うつになってからの悪い経過のみを書き連ねてみました。今日は寝不足で頭が痛いです。

安定剤

羽生さん(凄すぎてくん呼びできなくなった)のSPを画面越しに観終わって興奮冷めやらないのが今。

 

左上の加点欄に+4とか出ちゃうの凄い、とにかく凄い、羽生結弦って凄い。新ルールってなんだろう、普通に100超えてるじゃん。インタビューでちゃっかり今日はプル誕だから…と呟く強火なオタク、それが羽生さん。

 

朝からあまり体調が良くなかったのもあって、ここで思いっきりテンションを上げてしまうと頭痛やらしんどさやらで夜中大変なことになるのが目に見えているので安定剤を増やして今夜はゆっくりすることにした。最近になってやっと体力がごっそり落ちた自分の体調を理解できるようになってきた。喉から声を出すことや座ること、何気ない動作が疲れを倍増させる。体力作りも大切だけど、今はとにかく休養することが大切だと感じる。明日のFSもちゃんと観たいしね。楽しみにしてるよ羽生さん。

 

 

HELP

「バリバリ動けていた頃の自分への憧れがまだ捨てきれてないんじゃない?」

 

という八の字氏の言葉を未だに引きずってます。

確かに、レベルの高いパフォーマンスを継続して行えるほどの気力は今の私には残っていません。

 

大人になる前に自身の限界を知り、受け入れてしまうことへの失望感ってどうしてこんなにも大きいのでしょうか。”限界を知る”なんて30代に突入してから言う言葉だと思ってました(既に30超えてる方には失礼極まりないのですが、本当にそう思っていました)。そこで「いや私はまだ出来るんだ!」と躍起になれない自分が情けないです。

 

そうやってひたすら自責することしか今の自分には出来ないんです。悲しい。

 

私はワキガ持ちです。中高生の頃にワキガのことを指摘されてからずっとコンプレックスで、でもそういう類の治療に理解のない両親は「それ以外の方法でどうにか対処しなさい」の一点張りでした。なので大学生になってからは毎日下着に脇汗パッドをつけて通学していました。それまでは気持ちが高ぶったり、大笑いするとワキガ臭が強くなり周囲を不快にさせてしまう為感情の起伏を抑えていましたが、パッドをつけることでそのような不安は一切消えました。消えたけど、経済的なことを考えればパッドを継続して購入するよりも安いレーザー治療で治るんならそのほうがコスパが良いのでは?とも思います。

 

今回こういった話をしたのは、ほぼ毎日家に閉じ篭ってパンティー、Tシャツ、ジャージの3点しか身につけていない自分が今日みたいにバラエティー番組を見てゲラゲラ笑っているとワキガ臭が濃くなって折角の笑いも台無しになってしまうような、そんな出来事が自己嫌悪に拍車をかけてしまって辛かったからです。

 

笑うと現実に心が締め付けられて辛い。一見支離滅裂な言葉の羅列に見えますが上記のような理由があれば少しは理解してくださる方も多いのでは無いでしょうか。

 

不明瞭な部分が多い疾患をいくつも抱えていてどこにも属せない自分が辛いです。だからハッキリと病気や障がいという区分に置かれていてそういう人達のための待遇をしっかり受けられる人が羨ましいです。これは妬みでも何でもなく、ただいいなあ羨ましいなあと思っているのです。やる気も身体も自信も全部が全部中途半端な自分が許せないのです。だから死にたい。 死んで楽になりたい。

 

そういうスレスレの部分で生を実感する時期はもう終わってしまったんです。スレスレから落ちて、真っ逆さま、もう、早く、消えてしまいたい、死んでしまいたい。

 

でも死にきれなかったらどうしようって考えると更に不安になってきて、生きることも死ぬことも許されない苦しさから解放されるには何が必要なんでしょうか。私はいつまでこの苦しさを心の核に置かなければならないのでしょうか。

 

死んだら負け、もうそれでいいです。早く開放してください。もうこんな人生いらない。親から貰った命だから大切にしろなんて誰が言ったんだろう。親と子は血の繋がった他人です。そこで無理やり繋がりを作らないでください。お母さん、何で私を産んだの。無理してまで。私はこの世に生まれ落ちたくなかった。どこまでも中途半端な自分を受け入れられないの。どうして弟は何もしなくても外見に恵まれているのに私はバイト代をつぎ込んでも普通の人にすらなれないの。どうして、ねぇどうしてよ…

 

 

 

うんざりです。早く死にたい。でも死ねない。自信がないから。誰か私を楽にして。

彼の晩年について

こんばんは。巡礼ぶりの更新です。

 

調べたことを纏めるだけのライターの仕事が全く捗らず、結局ここに戻ってきてしまいました。既に答えの決まっていることを何千と書くのが面倒で面倒で…。まあこれって私が仕事をしたくない言い訳に過ぎないんだけど…一文結論を書けば解決するようなテーマばかりでうんざりしている。多分この仕事向いてない。

 

ここ最近の私はうつ状態がかなり改善して、映画を最後まで一気に見るのはまだちょっとしんどいなあと感じるけど、休憩を挟みつつの読書や1本22分のアニメを鑑賞できるまでには回復しました。調子のいい日が増えてきたので時々都内まで散歩に出かけることもある。でも翌日の怠さが尋常じゃない。夕方まで身体が動かない。今が正にそれ。

 

布団から起き上がることすら億劫で、今日はひたすらTwitterを眺めていた。鍵付きの完全ROM専のアカウントを覗いたら情報収集のためにフォローしているスケオタの皆さんが何やら盛り上がっていた。羽生くんの新プログラムがお披露目されたらしい。

 

 

今年の彼のテーマは原点回帰、といったほうがわかりやすいだろうか。羽生くんの大好きな選手たちへのリスペクトと、その選手たちの真似をしていた頃のように、初心に返って純粋にスケートを楽しみたいという気持ちを込めての選曲だそうだ。

 

私が初めて羽生くんのスケーティングに目が釘付けになったのは『ロミオとジュリエット』だったと記憶している。

 

レオナルド・ディカプリオ出演の『ロミオ+ジュリエット』からの選曲で、古典の物語構成を維持しながらも時代背景を現代にそのまま持ってきた、斬新な作品であったように記憶している。私の大好きな『ムーランルージュ』と同じバズ・ラーマン監督の手がけた作品なのでここで思いっきり作品の良さを叫びたいところではあるが今回も割愛させてもらう。バズ・ラーマンの映画はいいぞ。

 

羽生くんのロミジュリに話を戻そう。

臨場感溢れる出だしから徐々にしっとりとした曲調に変わり、途中転倒してしまうものの、その悔しさをバネにしたかのように畳み掛けるジャンプの数々に驚かされる。少しずつ曲に勢いがつき、そして彼が叫んだ瞬間から会場内のボルテージは最高潮に達する。

 

私は初めてこのプログラムを見た時、鳥肌と涙が止まらなかった。フィギュアスケートとはこんなにも美しく、炎の如く燃え盛るアスリートのパッションをぶつけることの出来る競技であるのかと。ジャンプやスピンの見分け方などこれっぽっちも分からない。けれどあの時、心の底から湧き上がってくる何かを感じた。魂が揺さぶられるとはこういうことを指すんだ、とその瞬間思い知らされた。その場に観客として居たわけでもなく、リアルタイムでテレビに張り付いてわけでもない。動画サイトを漁っている時に偶然見つけた映像にこんなにも心惹かれるなんて。今見ても感動する。

 

その後も崩れることなく、シーズン毎に素晴らしい作品を遺していく羽生結弦の姿はまるで文人の書作品を見ているような心地がした。

 

記憶違いがあってはいけない、と動画を見返しながらこの記事を執筆しているのだけど、当時の羽生くんの合計点が251.06。ルール変更前の最後の試合の総合得点と比べるとこの数年でこんなに成長したのかと驚くばかり。さらに今季のプログラムと比較することでハッキリとわかるひとつひとつの技術の磨かれ方には思わずため息が零れる。

 

引退という二文字が見え隠れする今季のプロは歴代のスケーターへのリスペクトからできたものだと言伝に聞いてはいたし、「彼もそんな時期なのかあ…」と新参ながらしみじみとしていたのは私だけではないはず。双方のプログラムを滑り終え、無事に優勝を勝ち取った彼のインタビューをここでご覧頂きたい。

 

www.hochi.co.jp

 今もう勝ちたいしかないんで。本当に悔しい気持ちがいっぱいなので。それが一番自分らしいのかもしれないですけれども。本当に、自分が頑張ったって言えるぐらい練習してきたいと思っています。

 

流石としか言いようがない。五輪で連覇を達成したにも関わらず、今季もアクセル全開で、全力で勝ちを掻っ攫いに行くらしい。羽生結弦が勝ちにいかないわけがない、そりゃそうか…(納得)

 

 試合に出場したことで彼の勝ちへのこだわり、徹底した技術に裏付けられた表現力を魅せるための鍛錬に火が着いたのだと思う。今季のGPFが楽しみだ。

 

GPFの舞台で彼のスケートがどのような変化を魅せるのか、そういう点も踏まえたうえで見れたらいいな。私も負けてられない。